鈴木のブログ

読書メモとして。

曽我謙悟「日本の地方政府ー1700自治体の実態と課題」

 
 新書という限られた分量の中で、複雑な「日本の地方政府」を非常に幅広い視野で語ることができている、タイトルに見合うだけの書籍であると感じた。
 
 「日本の地方政府」という幅広なタイトルだが、これは大森彌・佐藤誠三郎編の「日本の地方政府」(1986年発行)を意識しているのだろうか。
 
 大森・佐藤版の「日本の地方政府」では、戦後日本の地方自治の議論が、統治構造における中央地方関係の在り方をどのように認識しているかを基礎としていることを踏まえ、「政府間関係」の視点を導入するとともに、「地方政府」の内部構造に組み込まれている対立・緊張の契機を認識するため、「日本の地方政府」というタイトルにしたとされている。
 その中におさめられている高木の「戦後体制の形成」は、戦後の地方制度がどのようにして成立するに至ったか、占領初期→シャウプ勧告→講和後のそれぞれの改革について述べたものである。また、天川の「変革の構想」では、中央政府と地方団体の関係を「集権・分権」の軸と「分離・融合」の軸でとらえている。その他、地方政府の財政支出の在り方とその地域の政治的特性および社会経済的特性との関連を解明しようとした「政治指標と財政支出」、自治政を市長・議会・住民・職員組合の四極構造ととらえ、革新自治体の後退との関係を論じた「四極構造による政治化」等の論稿がまとめられている。
 最後に収録されている村松の「政府間関係と政治体制」では、多元主義の立場から、知事の面接データをもとに、中央地方関係が垂直的統制モデルが示すよりはるかに複雑な政治過程であると主張している。村松によれば、「日本の行政学政治学では…日本の中央地方関係を中央集権的であるととらえ、その認識の上に立って日本の地方自治を充実しようという規範的立場が有力」であり、「その立場から地方は自主的な決定を行う『地方政府』であるべきだとの主張が出された」とされている。しかし、村松にとってみれば「『地方政府』はすでに事実の問題」である。
 本の帯には「地方政治の現実を実証的に解明する!異色の顔ぶれによる画期的研究」とあり、いまから見ると「日本の地方政府」という幅広なタイトルの割りにやや政治面に寄りすぎている気がしなくもないが、村松論文で述べられたような当時の学問状況を踏まえれば必要なことだったのかもしれない。
 
 一方の曽我版「日本の地方政府」は、地方政治の構造や地方政府間の関係、中央政府との関係について触れながら、行政と住民、地域社会と経済といった視点にも触れられている。特に地方政府の人事管理やトップ・マネジメント、民間参入による地方政府のプラットフォーム化等、行政組織についての記述に一章を割いているのは、大森・佐藤版と比べたときの大きな違いのように思う。
 その上で、曽我版では日本の地方政府の大きな課題として、「歳入の自治がない」ことを投げかける。「どれだけの負担を背負ってどれだけのサービスを受けるのかをセットで考えることが、民主主義の基本である。そのためには、困難な決定ができるような地方政治をつくっていく、制度整備が先である。」「地方自治は民主主義の学校というが、それならば、私たちはまだ学校に入学していない」という指摘は心に重く残る。
 
 大森・佐藤版は、「日本の地方自治を充実しようという規範的立場が有力」だった時代に、日本の中央地方関係に新たな視点を導入する、という問題意識から書かれている。「レヴァイアサン」の創刊が1987年であり、大森・佐藤版の発行が1986年。村松はレヴァイアサンの創設メンバーの一人でもあるから、そうした流れと問題意識を共有していたのだろうか。
 一方、曽我版は2019年に発行されているが、前年2018年にはレヴァイアサンの紙媒体での発行が終了している。曽我版「日本の地方政府」は、日本の地方政府の新たな規範を作り上げていくため、そのきっかけになるものかもしれない。

木下誠也「公共調達解体新書」

 

 本書では、我が国の公共調達制度の歴史が概観されている。以下簡単にまとめておく。

 

 我が国の公共調達制度の出発点ともいえる明治会計法は、1889年に公布、1890年に施行された。

 明治会計法は、私利非行による価格のつり上げを防止する観点から、西洋諸国のうち特にフランスとイタリアにならい公開による入札を原則とし、厳格な予定価格の制限を設けた。こうした一般競争入札の原則は、それまでの慣行を覆す政策上の大転換であったが、一般競争入札は事務が煩雑で、社会的混乱もあったこともあり、政府は特例として随意契約の範囲の拡大を徐々に行っていった。

 

 1921年に公布された大正会計法では、一般競争入札の例外として指名競争入札随意契約が明記されるとともに、随意契約の範囲が拡張された。以後、実際においてはほとんどの公共工事指名競争入札が採用されることとなる。

 

 戦後、日本国憲法の制定に伴い大正会計法も全面改正され、1947年に「会計法」「予算決算及び会計令」が制定された。会計法はその後、1961年に「低入札価格調査制度」を位置付けるなどの改正がなされたほかは特筆すべき改正はなく、1993年頃までは公共工事の入札方式のほとんどは指名競争入札となり、一般競争入札が行われることはほとんどなかった。

 

 一方、地方公共団体については、戦前は明治31年の市制及町村制の改正により、入札契約に関する規定が定められていたが、1947年に地方自治法が公布され、地方自治法の契約条項は会計法及び予決令に準拠して作成された。

 1961年の会計法改正を受け、1963年(昭和38年)に地方自治法施行令が改正され、会計法に規定した条文と同様の条文が加えられたほか、最低制限価格を設けることができることとされた。

 

 ただ、昭和30年代の会計法地方自治法等の改正後も、実際には指名競争入札による発注が多かったため、低入札価格調査制度が活用されることは多くなかったようである。

  

 その後、1993年からの公共工事をめぐる不祥事件を契機として、一般競争入札の導入など入札契約制度の抜本的改革が打ち出されると、指名競争入札により担保していた公共工事の「品質」の確保が重要な課題として認識されるようになり、1999年の地方自治法施行令改正による総合評価落札方式の導入などにつながっていく。

 

 本書は上記のような契約制度の歴史のほかにも、諸外国との比較からみる日本の入札契約制度等についても触れられており、非常に勉強になる。

 

 

 なお、本書を読んで思った疑問として、「なぜ国は最低制限価格制度を規定しなかったのに、地方公共団体については最低制限価格制度を規定したのか」という点がある。本書にはその解答は書かれていないようである。

 そもそも昭和38年の地方自治法改正は、「財務に関する地方公共団体の組織及び運営の合理化を図ることにより、地方公共団体における行政の能率と公正を確保すること」を目的として、財務規定を中心に大幅な改正を行ったものである。(なお、この改正は地方財務会計制度調査会の答申をもとに行ったもののようだが、その答申はネット上には見当たらなかった。)

 ※「地方自治法の一部を改正する法律(地方開発事業団関係を除く。)の施行について」(昭和38年自治事務次官通知)http://www.gichokai.gr.jp/keika_gaiyo/pdf/s38_sikou.pdf

 ※荻田保「地方財務会計制度の改正」(年報行政研究)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jspa1962/1964/3/1964_3/_pdf

 

 ただし、最低制限価格制度の規定は地方自治法施行令にあるためか、上記の法改正関係の資料には最低制限価格についての記載は見られない。

 国会会議録には以下のような答弁があった。

 ○説明員(中島忠能君※自治省行政局行政課長) 地方自治法に最低制限価格制度を設けましたというのは、先生御存じのように三十八年に地方自治法の大改正を行いまして、そのときに地方公共団体の実態を調べましたところが、それぞれの地方団体が条例等で最低制限価格制度を主として工事の請負契約について設けておりましたので、私たちの方では施行令で設けたという経過でございまして、皇居の例の間組の一円入札ですか――一円か千円か忘れましたが、直接それに関連してわれわれの方が制度化したというふうには御理解いただかない方がいいんじゃないかと思います。(昭和57年7月6日参議院地方行政委員会)

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/096/1050/09607061050014.pdf

 ○大林政府委員(※自治省行政局長) 制度の趣旨から申しますと、最低制限価格制度あるいは国でやっております低価格調査制度というものは、それなりの事情があってできたものでありますが、問題はその運用の仕方でありまして、結局、最近、最低制限価格制度にまつわる問題点としましては、最低制限価格の決め方の問題、これが一番大きな問題として当面の問題になっておるわけであります。したがいまして、そういった最低制限価格を採用した場合の価格の決め方、あるいはもう一つの方法としまして低価格調査制度、こういったものをどう組み合わせて採用するかという問題は、その地方におきます契約担当者の能力との関連もございます。
 国の場合におきましてはそういった審査システムというものがわりあい充実しておりますので、最低制限価格制度というものを採用するまでもない、こういうふうな事情がありますけれども、地方団体の場合にはいろいろな規模に応じまして事情は違いますけれども、なかなか国並みの価格審査能力、体制というものが整っていないのが現状であります。
 そういうことを前提としまして最低制限価格制度をとっておるのが大部分を占めるわけでありますが、問題は、その価格の決め方、この運用の仕方、これが結局、先ほど申し上げましたように、契約の入札のあり方あるいは相手方の能力、資質、こういったものと関連をいたしますので、一般的に一律に何%程度の最低価格というものが適当であるかどうかという問題になりますと、一律な指導というものは困難であろう、こういうお答えをいたしておるわけであります。(昭和58年4月26日衆議院地方行政委員会)

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/098/0050/09804260050009.pdf

 これらの答弁からは、地方公共団体では国に先行して条例で最低制限価格制度を導入している事例があったこと、国と比較して価格審査能力・体制に劣るために地方公共団体では最低制限価格制度が利用されていたことが推察される。

前田健太郎「市民を雇わない国家―日本が公務員の少ない国へと至った道」

 「日本の公務員数はなぜ諸外国と比べて少ないのか」を分析した本。

 

 そもそも日本の公務員数は諸外国と比べて少ないのか。

 人事院によると、2013年度の日本の公務員数は339.3万人であり、人口の3%を占めめているに過ぎない。「公務員」の定義を最大限に広げたとしても、その数値は3割程度しか大きくならない(公務員数の国際比較に関する調査)。

 (例えば日経新聞の記事では「893万人」と記載されていたようだが、これは公共部門で少額の給与を得て源泉徴収票を受け取った市民も含む数値になっているとのこと。それを「公務員数」というのはさすがにミスリーディングが過ぎるのではないか。)

 様々な視点から公務員数を分析し、本書は「日本の公務員数が少ないという傾向は分野を問わず該当する」とまとめている。その上で、「日本の公共サービスの多くは、政府による直接供給を通じてではない形で、公務員とそれ以外の主体の協働を通じて市民の手に届いている」と述べている。先日読んだ町内会の議論にもつながるような気がする。

 

 では、なぜ日本は公務員数が少ない国になったのか。

 本書は「現在の公務員数を規定するのは、経済発展の早い段階における公共部門の拡大圧力の強さと、その拡大が停止したタイミングである」と指摘し、日本を「経済発展の早い段階で公務員数の増加を止めた国」として特徴づけている。事実、戦後日本の公務員数(人口比)は、中央・地方を問わずほとんど増加していない。

 

 まず、日本における公務員の人件費の特徴を考える上で決定的に重要なのは、公務員の労働基本権の制限と、その代償としての人事院勧告の存在である。人事院勧告に従えば、民間の賃金上昇により公務員人件費にも増加圧力がかかることとなる。また、人事院勧告に従って公務員人件費が決まることにより、日本政府は所得政策という、マクロ経済政策の手段を欠くことになる。つまり、日本における公務員の人件費の特徴は、その財政的な統制の難しさにある、といえる。

 それゆえに、1960年代の行政改革は、給与面からのコントロールの効かない公務員の数を低く抑えることによって、財政政策の柔軟性を確保することを目指すという性格を有することとなった。

 さらに、1960年代の行政改革は、地方自治体にも波及していく。1965年度以降、自治省は通達により、類似団体別財政指数表に基づいて、各自治体に人員整理と人件費の圧縮を求めていく。また、地方財政計画に地方公務員の定員削減が織り込まれることを通じて、地方公務員の増加に対する財政的な制約が加えられることとなる。

 一方で、1960年代の行革の結果、公益法人への業務の委託が幅広く行われることとなる。行革によって公務員数の抑制が開始されたことの副作用として、公益法人のような政府外の組織が増え始めたのである。

 

 

 本書の論旨は明快であり、また多様なデータを用いて根拠が述べられていて、非常に説得力のある主張だと感じる。

 比較的最近になって、PPP/PFIなど行政への民間活力の導入が強く進められているが、日本の戦後公務員制度はその発足当初から、民間の主体と協働せざるを得ない状況にあった、ということなのだろう。

 最近ではマスメディアなどでも「公務員削減すべし」といった議論はあまり聞かないような気がするが、「多様化」する行政ニーズに対し、大幅な公務員数の増加が見込めないということであれば、今まで以上に外部のリソースを活用して行政サービスを提供していくことが求められるのかもしれない。

日高昭夫「基礎的自治体と町内会自治会―『行政協力制度』の歴史・現状・行方」

 行政学の視点から、町内会自治会について分析した本。

 

 「町内会自治会」は、全国のほとんどの地域に存在している。全国で、なぜ似たような(しかし実際の運用には様々なバリエーションがある)制度が形成されたのか。

 

 近代的地方自治制度の出発点は、1888年に制定され、翌1889年から施行された市制町村制であった。市制町村制の公布に際して付された解説書「市制町村制理由」によると、「自治区は法人として財産を所有し之を授受売買し他人と契約を結び又其区域は自ら独立して之を統治するものなり」とされていた。これは「自治体」としての市町村の宣言である。

 

 一方で、市制町村制は、機関委任事務の受け皿としての市町村の役割を制度上明確にしたものでもあった。当初の規定は制限列挙的に事務を規定していたが、1911年の全文改正により、市町村長の権限を強化するとともに、機関委任事務を包括的に規定することとなった。

 しかし、1911年の改正により地方の負担が増大し、地方の反発が生じたため、1929年の改正により、市町村吏員に対する国政事務等の委任は必ず法律勅令をもって行うこととされた。

 ところが、戦時体制の下、再度市制町村制が改正され、「並従来法令又は慣例に依り及将来法律勅令に依り」が「及法令又は従来の慣例に依り」とされた。

 現代に至るまで、日本の地方自治制度は国と地方の「融合」の度合いの高さが特徴とされているが、そうした「融合型」の国地方関係はこうして市制町村制の基本設計の中に組み込まれていった。近年の地方分権改革の流れの中で機関委任事務は廃止され、自治体の事務は法定受託事務自治事務に分けられるようになっているが、機関委任の自由度を制約するような制度改正が戦前にも行われていたという点は興味深い。

 

 一方、行政と民間との関係はどうであったか。「市制町村制理由」では、「自治」の担い手として、いわゆる「名誉職」という形での私人の公的動員を期待していた。しかしながら、市町村の現場においては、制度導入の早い時期から区長報酬や費用弁償など事実上の「有給制」を採用するケースは少なくなかったようである。

 特に町村行政においては、町村吏員数のうち名誉職の比率が1936年には78%を超えるに至っていた。大都市を除く市町村においては、市町村行政を運営するための不可欠の要素として、「名誉職」の住民を「最大動員」するメカニズムがビルトインされ、相当程度機能していた、と考えられる。

 

 では、そのような国政事務の受け皿たる市町村において、私人を公的に動員してきた「行政区長制度」はどのように形成されてきたのか。

 1888年の市制町村制は、明治の大合併を前提とした「大市町村主義」の実現を施行の条件としていた。明治の大合併の結果生まれた合併町村において、旧町村が有していた公共的機能を制度化する役割を担ったものが、「区」と「区長」の制度であった。

 市制町村制においては、区長及び区長代理について、執行機関である市参事会及び町村長の事務のうち当該区域内の「事務を執行補助」する行政機関であることを明示している。ただ、当時の明治政府にとって、区長制度の法制化は市町村形成の経緯と現状にかんがみて「已むを得さるの便法」に過ぎず、積極的に推進する意図は弱かった。しかし、結果的には、大正期を中心に行政区長制度は全国化していく。

 その後、日中戦争が始まり戦時色が強まる中、1940年の内務省訓令第17号部落会町内会等整備要領が通達され、全国的に部落会町内会等の組織が整備確立されていく。1943年には市制町村制も改正され、市町村長の事務を町内会部落会に援助させることができることとされ、部落会町内会が法的根拠を得ることになる。これは、選択的制度として全国に波及した行政区長制度が、次第に官製の色合いの濃い部落会町内会制度へと変質していく過程である。

 敗戦後も、内務省は町内会部落会の存続を前提とした市制・町村制の改正を企図していたが、ポツダム政令第15号により、町内会部落会等の解散と公職追放が命じられる。しかし、実際には従来の町内会・部落会が形を変えて存続し、あるいはそれに相当する組織が結成されていくこととなる。

 

 と、ここまで町内会自治会の歴史的経緯に係る記述を中心にまとめてみた。(本書第5章)

 本書は歴史的経緯だけではなく、町内会自治会の現状に関するデータや事例研究など、様々な観点から町内会自治会を分析しており、大変読み応えがある。

 

 町内会自治会は明治の地方自治制度に起源を持ち、現在でも存続している制度である。基礎的自治体である市町村がこのような地域協働体制を必要とする理由の中には、市町村合併の負の側面を補完するための行政参加システムを提供する理由のほかに、一般に行財政リソースの恒常的不足を補完するという構造的な行政問題が横たわっている、と著者は指摘している。

 町会加入率の低下などは様々な地域で言われていることだと思うが、市町村が多様な市民ニーズに少ないリソースで対応することを求められ続ける以上、それを補完するための地域協働体制もまた必要とされ続ける、ということなのだろう。

デービッド・アトキンソン「新・観光立国論」

 

 外国人観光客数の増加が著しい昨今、国から自治体まで、どこもかしこも「観光、観光」と言っているような気がするが、その観光政策について、日本がとるべき方策を述べた本。著者は元ゴールドマンサックスのアナリストで、データに基づく指摘は簡潔で説得力がある。

 

 著者によると、「観光立国」の4条件は「気候」「自然」「文化」「食事」。日本はその全てを満たしている稀有な国である。ではなぜそのような好条件がそろう日本で、外国人観光客はたったの1,300万人しか訪れていないのか。

 それは、単純に観光政策に「力を入れてこなかった」からである。その上、海外にアピールすべきポイントを勘違いしている。

  例えば、日本のアピールポイントとして、「交通アクセスがいい」「治安がよい」「マナーがよい」などと言われることがある。しかし、考えてみれば、自分たちが外国に旅行するときに、そうしたことを観光の第一目的にするだろうか。

 「観光立国」であるためにいは、4条件全てを「フルメニュー」でそろえることが重要である、と著者は指摘する。これら4つをベースに置きつつ、それ以外を+αで載せていくことこそが必要である。

 

 また、日本の「おもてなし」がアピールされることもしばしばある。しかし、外国人の側から日本の「おもてなし」が評価されていることはほとんどない。むしろ、マニュアルにないリクエストがあると対応できないのが日本の法人のサービスだと言われているらしい。

 このような日本特有の「おもてなし」の根源は、「ゴールデンウィーク」というシステムにあるのではないか、と著者は推測している。ゴールデンウィークは、何もしなくても多くの日本人を国内観光に強引に送り出すシステムであり、その結果として、観光地には、短期間に大量の人を効率的にさばくというシステムが確立していったのではないか。そして、この「需要が一時期に集中する」というシステムのせいで、日本の観光業の設備投資は難しくなる。一時期の需要に対応させるために投資を行うと、それ以外の期間は過剰投資になるため、投資効率が悪化する、ということである。

 重要なことは、「多くの人をさばく観光」から「お金を落とす客にきてもらう観光」に発想を転換することである。

 

 そしてそのためには、観光マーケティングをしっかり行う必要がある。

 現状、日本を訪れる外国人観光客は、その約9割がアジアからの観光客である。アジアからの観光客に対しては、食・ショッピングを売りにして、しっかりアピールができている、と言える。

 一方、ヨーロッパやロシア、オーストラリアという先進国から日本に来る観光客は非常に少ない。そして、これらの国の人々は、一人当たり観光支出額が大きい「上客」である。加えて、これらの遠い国からの観光客は、長く滞在する傾向にある。観光客の支出の約半分が滞在のための費用(宿泊・食事)であるから、観光収入を増やすためには、これらの長期滞在する観光客をいかに呼び込むか、が重要である。

 よって、これらの国の人々を対象として、細かくセグメンテーションをした上で、それぞれどのように対応していくかを考える必要があるが、そこで重要になってくるのは「多様性」である。外国人を呼ぶためには、「あれもこれも」やらなければいけない。高級ホテルの用意や、富裕層向けの優遇措置などを設けることで、よりよいサービスを提供し、お金を落としてもらうことが必要である。

 

 

 本書では日本の観光施策について様々な指摘がなされるが、いずれも簡潔でわかりやすく、手厳しい。マーケティングをして、買い手のニーズをとらえて、求められているものをできるだけ効率的に売る、というのは、観光に限らずビジネスの基本なのだろう。

 「うちの地域には〇〇があるから、観光資源として使えるのではないか」というようなことは全国各地で言われているのではないかと思う。しかし、何かを売ろうとしたら、買い手の立場に立たなければものは売れないのだ、という当たり前の事実を肝に銘じておく必要がある。

新川敏光「同心円でいこう 田中角栄」

 「田中政治の軌跡を辿りながら、戦後民主主義を再考する」目的から書かれた一冊。エピソード豊富でかなりのボリュームがあるが、以下、目についた記述をメモ的に記載する。

 

 まずは生い立ち。新潟で産まれた角栄は、家社会の価値観がしみ込んだひ弱な、神経質で潔癖症の少年であった。後年の豪放で明るく、快活な性格は、後年自ら意識して身に着けたものであったらしい。

 その後16歳で上京、一時期兵役についた後、田中土建工業株式会社を立ち上げ、理研からの発注を受けて成長していった。

 田中の「私の履歴書」には、当時の様々なエピソードがつづられているが、当時の国内外の政治や経済状況に関する記述は一切出てこないらしい。このことから、著者は「田中にとって世界とは自分に直接関わる範囲の出来事である」と述べている。

 

 次に新憲法下で実施された選挙に出馬するが落選。戦後二回目の選挙で雪辱を果たす。このとき、田中は旦那政治の牙城であった都市部を避け、辺地・僻地を徹底的に回った。これにより、田中は旦那政治から疎外された庶民、都市部に対する農村の利益を代表する政治家となった。

 ただ、その後票の掘り起こしが進むにつれて、各地の田中党が越山会という後援会組織に一本化されていく。当初の田中党にあった草の根民主主義的色彩が弱まり、陳情と利益誘導の団体へと純化していく。加えて、1960年に生まれた越後交通(田中は筆頭株主で会長)が越山会の総本山として機能するようになる。

 ちなみに、田中に就職斡旋を受けた者たちを中心に組織された選挙マシーンとして、「誠心会」というものも存在したらしい。

 

 政策面から見てみると、田中の豊富なアイデアは、その議員立法に表れている。田中は、国土総合開発の重要性を説き、建設行政の一元化を主張した。そのハイライトが道路三法(道路法、道路整備緊急措置法、道路整備特別措置法)である。

 大蔵省の反対を押し切り、ガソリン税収入相当額を一般財源から道路予算に回すという案により、1953年に法案を成立させている。ガソリン税のアイデアは、建設省の官僚たちが田中に授けたものであったようだが、大蔵省の抵抗に立ち向かい、それを乗り越える政治家として、建設省は田中にすがったのであった。

 また、積雪対策としては1951年に積雪寒冷単作地帯臨時措置法を成立させている。

 

 1957年に、田中は岸内閣の郵政大臣として初入閣を果たす。初登庁するや郵政省以上に大きな全逓の看板を外させ、1958年の勤務時間に食い込む職場大会に対しては執行部7人の解雇を含む大量処分を行うなど厳しい対応をとる一方で、「香典」として3億円を拠出する。「戦うときには徹底的に戦うが、相手の命を奪うまではしない。必ず助けて、恩を売る。」のが田中流

 1961年には党政務調査会長として保険医総辞退問題に対処し、対する日本医師会の武見会長に白紙委任の提案書を届ける。捨て身の作戦に出ることで、相手の信頼を勝ち取っている。

 1962年には大蔵大臣に就任。課長や課長補佐級の若手官僚に教えを受けた。「総論ではなく各論、政策の総合調整ではなく具体的な仕組みと運用を勉強するのが田中流である。」

 

 著者は田中の政策アイデアの源泉について、「経験主義」によって特徴づけられるとする。ここでいう経験主義とは、「田中の発想は、自分が体験したり、観察したり、聞いたりしたことに基づいている」ということである。

 経験主義者田中角栄は、イデオロギー対立などというものを真に受けず、価値観の対立を利益の対立に、質的問題を量的問題へと転化し、「足して二で割る」。田中の発想そのものは経験の中で得たものであるが、それを政策として実現してしまうところに、誰にもまねできない田中の独創性があった。

 そして田中は、庶民の夢を実現するとともに、それによって自らも富と権力を得た。戦後民主主義は、井戸塀政治家ではなく、田中のような政治的事業家たちによって担われた。名望家によるエリート民主主義ではなく、政治的事業家による大衆民主主義こそが、戦後民主主義の姿であった。

 

 田中は首相になった後、日中国交正常化を実現する。竹入メモを読むまでは逡巡を重ねた田中であったが、ひとたび決断すると、再び揺らぐことはなかったという。田中が日中国交回復を決断できたのは、彼がイデオロギー的な反共主義者ではなく、経済的実利を求める経験主義者であったことによるところが大きい。

 

 なお、本書のタイトルである「同心円でいこう」は、創政会発足後、竹下が田中にあいさつに行った際にかけられた言葉である。田中は怒りながらも、反乱の首謀者を処分しなかった。

 

 ロッキード事件により、田中は悲劇のヒーローとして伝説となった。この悲劇のヒーローとしての田中伝説は、田中の元秘書、早坂茂三によって作り出された側面がある。田中伝説の要は、金権政治ロッキード事件である。

 元々自民党は、田中を「集金マシーン」としか捉えていなかった(by平野貞夫)。そんな田中の金の渡し方は、「現金を渡すときは、人目につかない場所を選び、直接本人に渡す」。これは金銭の価値が心理的なものであることを知り尽くしたしたたかな計算に基づく。一度金を受け取れば、田中の気持ちを受け取ったことになる。金は返さなくともよいが、恩は返さなければいけないのである。

 ロッキード事件について、謀略論は繰り返し再生産されているが、その源泉を探ると、田原総一朗アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」にたどり着く。しかし、田原も最後まで確実な証拠にたどり着くことはできていない。アメリカ側の資料を調べ、謀略論の裏付けが全くとれなかったという研究成果もあるようだ。

 

 本書のまとめとして、著者は「田中政治の本質は、友敵関係を徹底する排除の政治ではなく、全てを包み込もうとする包摂の政治にあったように思う。」と述べている。また、田中の愛弟子であった小沢一郎は、「(田中は)権力の本質、その使い方を知らなかった。…オヤジの欠点は、人のよさ、気の弱さだった」と指摘している。

 

 最後に、ポスト田中政治の行方として、著者は小泉政権に触れ、「小泉が新自由主義によって壊そうとしたのは田中角栄に代表される古いパターナリズムであったといえる。」と述べている。

 田中政治が「質的問題を量的問題へと転化」するものであったならば、田中派と対峙した小泉政治は、田中派的なもの、その支持基盤との対決を「郵政民営化」に集約することにより、逆に「量的問題を質的問題に転化」したものだったのだろうか。そして小泉の首相としての冷酷さは、田中にはなかった権力者としての強さだったのだろうか。

 以上、本書のメモをつらつらと書いてみて、そういえば、小泉純一郎について、ちゃんとした学者が書いた評伝はないのだろうかと思った。小泉政権については数多くの研究があるが、小泉純一郎という個人についての研究が見られないのは、まだ一応現役の政治家だからだろうか。小泉による田中角栄評など聞いてみたい気もする。

鈴木智彦「サカナとヤクザ」

 「サカナとヤクザ」という直球のタイトルに魅かれて購入。

 アワビやナマコ、ウナギといった水産物をめぐる密漁、密輸等々、「裏」の世界のルポは緊張感があって非常におもしろかった。

 

 そもそも日本の漁業は、漁獲規制が緩すぎて資源管理ができていないため、生産性が低い状況になっている(勝川「漁業という日本の課題」)。それに加えて、流通もトレーサビリティがしっかりしておらず密漁品が多数流入しているとなれば、水産業を「健全な」状態にするにはいったいどこから手を付ければいいのだろうか。消費者は商品を手にすることができ、流通業者は安く仕入れた商品を高く売ることができ、漁業者は漁獲高が上がらないことを密漁のせいにできる(実際密漁の要因はかなりあるのだろうが)。結果として日本の漁業資源は将来どうなってしまうのか。

 

 本書でも水産業暴力団とのかかわりがテーマになってはいるが、暴力団とつながりができるのは、そもそも不公正なルールの下での競争が存在するからなのかもしれない。「それぞれ仕事を持っている個人事業主の互助会、それがヤクザであり暴力団の姿である。」とは本書の言葉であるが、ヤクザどうこうを問題にするよりも、まずは公正なルールを作ることが必要なのだろう。

 

 ちなみに、本書によれば、日常的に密漁事案を手掛けるのは、海上保安庁直轄の、それぞれの地域に設置された海上保安部がメインとなる。

 国の省庁で言えば漁業政策自体は水産庁農水省)の所管であるが、海上保安庁国交省の外局である。本書では特段指摘はなかったと思うが、組織が違えば縦割りの弊害が発生することはよくあることであり、密漁対策にもそのような側面があるのかもしれない。

 

 また、タイミングを合わせたのかわからないが、今話題の築地市場に筆者がアルバイトとして潜入した際のルポもありなかなかおもしろい。

 例えば、「喫煙所はあるが誰も守っておらず、場内は実質、フリー・スモーキング」「ゴミはあたりかまわずその辺に放り投げる」など、築地で働く人たちのそもそもの衛生観念が低いレベルにあると思わせる記述がいくつかある。ワイドショーなどを見ていると「豊洲はこんなに使いづらい!」といったような報道が多くなされているが、築地がそんなにすばらしい市場だったのであれば、なぜ大量のネズミの住処になっているのか、よく考えてみる必要があるだろう。