鈴木のブログ

読書メモとして。

新川敏光「同心円でいこう 田中角栄」

 「田中政治の軌跡を辿りながら、戦後民主主義を再考する」目的から書かれた一冊。エピソード豊富でかなりのボリュームがあるが、以下、目についた記述をメモ的に記載する。

 

 まずは生い立ち。新潟で産まれた角栄は、家社会の価値観がしみ込んだひ弱な、神経質で潔癖症の少年であった。後年の豪放で明るく、快活な性格は、後年自ら意識して身に着けたものであったらしい。

 その後16歳で上京、一時期兵役についた後、田中土建工業株式会社を立ち上げ、理研からの発注を受けて成長していった。

 田中の「私の履歴書」には、当時の様々なエピソードがつづられているが、当時の国内外の政治や経済状況に関する記述は一切出てこないらしい。このことから、著者は「田中にとって世界とは自分に直接関わる範囲の出来事である」と述べている。

 

 次に新憲法下で実施された選挙に出馬するが落選。戦後二回目の選挙で雪辱を果たす。このとき、田中は旦那政治の牙城であった都市部を避け、辺地・僻地を徹底的に回った。これにより、田中は旦那政治から疎外された庶民、都市部に対する農村の利益を代表する政治家となった。

 ただ、その後票の掘り起こしが進むにつれて、各地の田中党が越山会という後援会組織に一本化されていく。当初の田中党にあった草の根民主主義的色彩が弱まり、陳情と利益誘導の団体へと純化していく。加えて、1960年に生まれた越後交通(田中は筆頭株主で会長)が越山会の総本山として機能するようになる。

 ちなみに、田中に就職斡旋を受けた者たちを中心に組織された選挙マシーンとして、「誠心会」というものも存在したらしい。

 

 政策面から見てみると、田中の豊富なアイデアは、その議員立法に表れている。田中は、国土総合開発の重要性を説き、建設行政の一元化を主張した。そのハイライトが道路三法(道路法、道路整備緊急措置法、道路整備特別措置法)である。

 大蔵省の反対を押し切り、ガソリン税収入相当額を一般財源から道路予算に回すという案により、1953年に法案を成立させている。ガソリン税のアイデアは、建設省の官僚たちが田中に授けたものであったようだが、大蔵省の抵抗に立ち向かい、それを乗り越える政治家として、建設省は田中にすがったのであった。

 また、積雪対策としては1951年に積雪寒冷単作地帯臨時措置法を成立させている。

 

 1957年に、田中は岸内閣の郵政大臣として初入閣を果たす。初登庁するや郵政省以上に大きな全逓の看板を外させ、1958年の勤務時間に食い込む職場大会に対しては執行部7人の解雇を含む大量処分を行うなど厳しい対応をとる一方で、「香典」として3億円を拠出する。「戦うときには徹底的に戦うが、相手の命を奪うまではしない。必ず助けて、恩を売る。」のが田中流

 1961年には党政務調査会長として保険医総辞退問題に対処し、対する日本医師会の武見会長に白紙委任の提案書を届ける。捨て身の作戦に出ることで、相手の信頼を勝ち取っている。

 1962年には大蔵大臣に就任。課長や課長補佐級の若手官僚に教えを受けた。「総論ではなく各論、政策の総合調整ではなく具体的な仕組みと運用を勉強するのが田中流である。」

 

 著者は田中の政策アイデアの源泉について、「経験主義」によって特徴づけられるとする。ここでいう経験主義とは、「田中の発想は、自分が体験したり、観察したり、聞いたりしたことに基づいている」ということである。

 経験主義者田中角栄は、イデオロギー対立などというものを真に受けず、価値観の対立を利益の対立に、質的問題を量的問題へと転化し、「足して二で割る」。田中の発想そのものは経験の中で得たものであるが、それを政策として実現してしまうところに、誰にもまねできない田中の独創性があった。

 そして田中は、庶民の夢を実現するとともに、それによって自らも富と権力を得た。戦後民主主義は、井戸塀政治家ではなく、田中のような政治的事業家たちによって担われた。名望家によるエリート民主主義ではなく、政治的事業家による大衆民主主義こそが、戦後民主主義の姿であった。

 

 田中は首相になった後、日中国交正常化を実現する。竹入メモを読むまでは逡巡を重ねた田中であったが、ひとたび決断すると、再び揺らぐことはなかったという。田中が日中国交回復を決断できたのは、彼がイデオロギー的な反共主義者ではなく、経済的実利を求める経験主義者であったことによるところが大きい。

 

 なお、本書のタイトルである「同心円でいこう」は、創政会発足後、竹下が田中にあいさつに行った際にかけられた言葉である。田中は怒りながらも、反乱の首謀者を処分しなかった。

 

 ロッキード事件により、田中は悲劇のヒーローとして伝説となった。この悲劇のヒーローとしての田中伝説は、田中の元秘書、早坂茂三によって作り出された側面がある。田中伝説の要は、金権政治ロッキード事件である。

 元々自民党は、田中を「集金マシーン」としか捉えていなかった(by平野貞夫)。そんな田中の金の渡し方は、「現金を渡すときは、人目につかない場所を選び、直接本人に渡す」。これは金銭の価値が心理的なものであることを知り尽くしたしたたかな計算に基づく。一度金を受け取れば、田中の気持ちを受け取ったことになる。金は返さなくともよいが、恩は返さなければいけないのである。

 ロッキード事件について、謀略論は繰り返し再生産されているが、その源泉を探ると、田原総一朗アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」にたどり着く。しかし、田原も最後まで確実な証拠にたどり着くことはできていない。アメリカ側の資料を調べ、謀略論の裏付けが全くとれなかったという研究成果もあるようだ。

 

 本書のまとめとして、著者は「田中政治の本質は、友敵関係を徹底する排除の政治ではなく、全てを包み込もうとする包摂の政治にあったように思う。」と述べている。また、田中の愛弟子であった小沢一郎は、「(田中は)権力の本質、その使い方を知らなかった。…オヤジの欠点は、人のよさ、気の弱さだった」と指摘している。

 

 最後に、ポスト田中政治の行方として、著者は小泉政権に触れ、「小泉が新自由主義によって壊そうとしたのは田中角栄に代表される古いパターナリズムであったといえる。」と述べている。

 田中政治が「質的問題を量的問題へと転化」するものであったならば、田中派と対峙した小泉政治は、田中派的なもの、その支持基盤との対決を「郵政民営化」に集約することにより、逆に「量的問題を質的問題に転化」したものだったのだろうか。そして小泉の首相としての冷酷さは、田中にはなかった権力者としての強さだったのだろうか。

 以上、本書のメモをつらつらと書いてみて、そういえば、小泉純一郎について、ちゃんとした学者が書いた評伝はないのだろうかと思った。小泉政権については数多くの研究があるが、小泉純一郎という個人についての研究が見られないのは、まだ一応現役の政治家だからだろうか。小泉による田中角栄評など聞いてみたい気もする。